11月の造形教室

ビリビリちぎる、をテーマにおばけちゃんの住む穴を作りました。

おばけだけではなく、マーメイドや、動物も住んでいます。


穴がたくさんあるのも、マンションみたいで楽しいですね。

ブルーノ.ムナーリの「木をかこう」という本を読んで、木を描いたり、フエルトで作りました。


新聞で、大きな木も!


木、と一口に言っても、表現方法も、形もなんてたくさんあんるんだろう!

まだ完成してないのもあるけど、スノードーム。

キラキラが多すぎて飾りが見えなかったり、油性ぺんを使ったのに、色が水で取れちゃったり、オユマル粘土が浮いてきちゃったり、

色々コツが難しかったけど、なんとか完成!

「不思議の森ボックス」人形の森とか、猫の森、色々たくさん。

「縄文クッキー」シイの実をひたすらむき、くるみ、長芋、うずらの卵をまぜ。。


クッキーと言うよりはオヤキ、かなあ。


本当に縄文の人は、こんな風にして、食べてたのかなあ。


想像しながら食べました。


メープルシロップかけても美味しかったそうです。



11月も、色々盛りだくさんでした。


私自身も、これまで色々試行錯誤しながら、目指したい場所を模索し続けてきましたが、やっぱりとにかく、「プロセスを大切に」の一言に尽きるなあ。と思いました。


なぜ、ほんの小さな子供が、こんなにも「完成の出来」にこだわるのか。


すごく不思議だなあ、とずっと考えていました。単純に、表現したいことを、助ける為の技術的な問題もあるのかもしれない。


(完成予想図に近づく楽しさもあるけど、作ったり描いたりの楽しさの素って、表現したい、っていうシンプルな欲求なんじゃないの?)


ものを作ったり、描いたり、と言うのは、やっぱりとても素直な気持ちが現れるものだ。

と言うのを、子供達は直感しているのかもしれません。


ゆえに、とても、こわい。



「上手いね」と言われるのは嬉しい。

でも、その逆の事が起きたら、と思うと身がすくむ。



私自身も、評価される事の罠にはまり、一時期は絵を描く事が出来なくなったことがあります。

描きたくてたまらないのに、手が震えて描けない。


表現したいという気持ちは膨れ上がり、捌け口のないまま、心を壊してしまった経験があります。



小さな頃は、「親」が全てで、親が正しい。

非常に大きな影響を持つのだけど、じゃあアトリエは、何が出来るの?


子供達は、何を望んでいるの?


この二つの問いは、私がアトリエを続けて行く限り、永遠に繰り返される気がします。


子供が、集中している瞬間。年齢が低い程、その瞬間は短いんだけど、その瞬間て、本当にきれいです。そこに立ち合えるって、幸せな事です。




しかし、完成にこだわるな!と言いつつ、私は「完成した」絵や作品が大好きです。絵はもう特に、好きな絵描きさんの絵を見ると、本当に心が震えて飛び上がりたくなるくらい。


やっぱりそのなかに、何かに向き合い、感じ、夢中で描いたり作ったりした人の気持ちが、"跡"になって残っているからなのかなあ。



子供の絵の中にも、そういう「気持ち」が、閉じ込められているから、魅力的なのかも知れません。


ほんの殴り書きの、たった一本の線、や点、とっておくほどのものではないもの。でも、確かにそこに美しい瞬間はあったんだ。って、大人が想像する事が、とても大事なのかも知れない。